赤い兎の下で
 病室から出て閑散としている廊下を歩く。湿布をされた上からでも分かる、未だ痛む自分の腫れた頬に手をあてた。
 昨夜、バーで酷く酔い、常連の内の一人に絡んで殴り合った時に出来た傷、らしい。よくは覚えていない。こちらが頬と腕に、あちらが足に傷を負ったところで店主に止められ、これまた常連の一人、あの店の客の中で一番付き合いが長い男に家まで送り届けられた、というのを、家の机の上にあった、おそらく奴が書いたのであろう置き手紙を読んで知った。ついでのように、病院に行ってこい、とも書き添えられてあったので、こうして自宅から離れた場所にある病院まで、わざわざ朝からやってきているのである。奴には後で礼の代わりに何か奢ってやろう、などと歩みを止めずに考えながら、赤くくすんだ天井をぼんやりと眺めた。
 心の中に生温く、そのくせ空気のように質量を感じさせない何かが居座っているような気がする。一見複雑なようでいて、しかし実はそこに存在しているかも定かではない感情――そう、所謂虚しさ、という塊が。その塊が如何にして生まれたものなのかは、何しろ生まれるまでの経緯を酒の力によって綺麗さっぱり忘れている俺には推測しようがない。だが、それがいつも酒を飲んだ翌朝には既に自分の中に鎮座していることだけは確かだった。ただその事実を認識していても、仕事をしたり、また酒を飲んだりすることによって、その感情は結局毎回うやむやになっていくのだが。人様が酒を飲んで感じ得られるものというのがどのようなものなのかは知らないが、酒を飲んだ次の日の朝というのは、自分にとって結局のところ、大体こんなものであった。今回も多分そうなるのだろう、と考え、冴えない心の底から吐き出したような溜め息をつき、家の机の上に放置してある書きかけの原稿の存在を思い出して、階段の方へ向けている足の速さを少しだけ速めた。
 病院の扉から出るか出ないかというところで、澄んだ音が聞こえてきた。どこかで聞いたことがあるような旋律なのに、不思議と懐かしさが感じられる。体の中からじんわりと込み上げてくるそれが新鮮で、思わず足を止めてそれに聞き入ってしまった。
 数分した後に歌は途切れた。誰が歌っているのか、なぜだかそれが気になって、つい歌が聞こえてきた方向、病院の中庭へと足を進める。
 着いた中庭は、花壇と申し訳程度に備え付けられた長椅子の二つが置いてある他には何もない、簡素な造りだった。こちらからは背もたれの方しか見えないその長椅子に、女が一人腰かけているのが見える。おそらくは黒髪の長くて綺麗な女であった。ゆっくりとした歩みで近づいていくと、横顔が見える。それでようやくこの女が誰なのかが分かった。確か以前バーに行った時、顔見知りの男が連れて来ていた女だった。何故こんな所へいるのか多少気になりはしたが、今はそれよりも先程女が歌っていた歌の方に興味があった。
「いい歌だね」
 不躾ではあると思ったが、女にそう声を掛ける。少しの反応を示した女は、緩慢とした動作でこちらを向いた。瞬きをしながら、焦点が合っているのか分からない濁った目で自分を見やるその様は、白痴美とでも言い表せばよいのであろうか――崩れやすく、冷たく、それでいて生々しい、ある種の美しさがあった。それに暫し見入っていると、短くはない間を空けて、やっと女が口を開いた。
「ああ、君か、おはよう。二週間ぶりくらいだね。確か……嗚呼、生原くんという名前じゃなかったかい」
「おはよう。……驚いた。数度会ったきりだのに覚えていてくれたのか」
「店に居た中でいつも一番印象に残るのは君だったよ。何しろ今まで見たことがないくらい酒癖が悪かったからね」
 そう言って彼女は首をことりと左へ傾けた。重力に従って彼女の黒髪が肩に流れる。それが彼女の話す時の癖なのか、単に首の疲れからそうしただけなのか、はたまた俺の表情をよく見る為に顔を覗き込もうとした結果なのかは分からなかった。
「ああ、そうだ、さっきの歌だったね。あれは私が舞台でよく歌っているものなんだ。つい口遊んでしまう」
「舞台で、歌っているのかい。道理で歌が上手いと思った」
「お世辞でもありがとう。あまりそんな言葉を言われたことがないんだ、とても嬉しいよ」
 彼女は顔を綻ばせることこそしなかったものの、目は彼女の機嫌の良さを示すようにゆるく細められていた。
「……そうだ、ところで、体の方は大丈夫なのかい?……聞いたよ、大変だったね」
「……もう君にまで話が広まっているなんてね。この街には居難くなったかな……」
「気分を害してしまったようで、すまないね」
「……いや、大丈夫だよ。……君は、他の人とは違って、何故あんなことをしたのかとは問わないんだね」
「問わない方がいいだろう?……それとも、聞いた方がいいのかい?」
そう言うと、彼女は困ったような、安堵したような中途半端な感情を目の奥に浮かべた。何故だかそのことが気になった。
「……そういう生原君こそ何故ここに?――嗚呼、自分のことも話さないのに人のことを聞くなんて失礼だったね」
「いいよ。どうせどうしようもない理由だ。……実は昨日、バーで泥酔してしまったようでね、その場にいた客と殴り合いの喧嘩をしたんだ。まあ、俺は覚えていないのだけどね」
「……」
「幸い怪我は酷くなかったのだけど、知人に病院へ行くよう勧められたから、一応、行っておこうと思って」
 すると彼女は、驚きと呆れを全面的に押し出した、おそらく会ってから初めて俺に見せるであろう、無防備な表情を晒した。そして、少しその表情で固まった後、こらえきれないとでも言うように突然笑い始めた。今度はこちらがぽかんとする番だった。訳が分からない。
 ひとしきり笑って気が済んだのか、彼女は弾んだ息を落ち着かせ、ようやく口を開いた。
「悪いね、笑うつもりじゃなかったのだけど、君が私の予想していた答えとほとんど同じことを話すものだから、おかしくて、つい」
「……何事かと思ったよ」
「呆れたとか、別にそういう訳ではないんだ。許してくれ」
 どうやら笑いの衝動から完全に解放されたらしい彼女は、また元の、どこか遠くを見つめるような目に戻った。こちらを見ているだけなのに、自分の中が見透かされているようで、そんなはずはないのに、どういう訳だか少し揺らいでしまった。
「……やっぱり、さっきの理由を教えることにするよ」
 ぽつりと彼女は呟いた。
「といっても、聞いたらすぐに忘れてくれて構わない。何、別に聞いたことに対する罪悪感やら責任やらは感じなくて結構だよ。これはただの私の我儘なのだから」
「無理に話そうとしなくとも……」
「無理じゃない。言ったろう、我儘だって。……お願いだから、何も言わなくていいから、どうか聞いてくれないか」
 彼女は一端そこで言葉を切って、次の言葉を吐き出すタイミングを計るかのように俺の目を覗き込んだ。
 ここまで強い瞳は初めてであった。
「あの日……あの日、私はあの人から殺されそうになったんだ。憎まれたり、妬まれたりしたって訳じゃない……所謂無理心中、ってやつだよ。まあ私はした側でもなく、話に乗った側でもなく、ただ……道連れにされそうになっただけだし、結果的には、皮肉なことに両方生き残ってしまっているけれどね。そのおかげで、職は辛うじて失わなかったものの、今まで通り暮らしていくことが難しくなってしまった。今居る家にも住み難くなってしまった」
 それはまるで彼女の独り言のように聞こえた。誰に語りかけるでもなく、彼女はただ淡々と自らの身に起こった事象を話し続ける。
「好きだと言ってくれたんだ。あの人は私が、私のことが好きなんだと、そう。……久しぶりだったんだ、こんな私にそんなことを言ってくれた人は。私はあの人のことを好きだという感情は抱いていなかった……でも、あの人はそれでもいいと言ってくれた。だから、これでいいはずだったんだ。私もそれで、それだけで、あの人と一緒にいられるだけで、私はそれだけでよかったんだ。よかったのに……なんで、どうしてこうなったんだろう」
 そこで初めて、彼女は俺から目を逸らした。日が差し込んでいるせいか、彼女の瞳は心なしか潤んでいるように見え、思わずちらりと彼女を盗み見た。彼女は泣いてなんかいなかった。
「なんでこうなってしまったんだろう。何がいけなかったんだろう。どこで間違えてしまったんだろう。……もう、よく分からないよ」
 深い溜め息をついた彼女は、それで我に返ったのであろうか、瞬きを二、三し、こちらの方を振り返ると、急に憑き物が落ちたかのような顔つきになった。
「……本当はこんなことまで話すつもりじゃなかったのにね。不思議だ。……重い話が更に重たくなってしまった、すまない」
 忘れてくれ、と笑う彼女に儚さを感じて、自分でも気づかないうちに彼女に声をかけていた。
「ほとぼりが冷めるまで俺の家に住まないか」
「……え」
 彼女以上に、そんなことを言った自分自身に一番驚いた。俺は軽々しく、それも素性もあまり知らない女にこんなことを言うような人間だったであろうか。世間の目ばかり気にする俺はいったいどこへ行ってしまったのか。だがしかし、一度口に出してしまったそれに訂正を入れるには、彼女の境遇はあまりに悲惨過ぎた。それに、どうせ向こうもこんな見ず知らずの男の提案になどのりたくないものだろう。そう考えて、彼女の否という返事を静かに待った。
「――……その、迷惑で、ないのなら」
 これまた驚くべきことに、彼女から返ってきたのは肯定の言葉であった。思わず彼女を見ると、彼女は未だ少しく呆然としていた。どうやら彼女も、俺の言ったこと、そして彼女自身が口に出した了承の返事に驚いているようだった。何故だか、その反応を見て、嬉しい、と思えた。
 偶には、いいのではないだろうか、こんな酔狂も。
「……じゃあ、退院したら、よろしく頼むよ」
「――! ……ああ。よろしく」
言葉を交わしながら視線も交わす。
こうして俺と和宮悠の奇妙な同居生活が始まった。

 それから一週間して、彼女は退院した。約束されていた同居生活は密かに幕を開けた。
 最初の数日は共に遠慮し合って生活していたものの、四、五日目以降は最早、どこか惰性で続けているようなところがあった。それでもやはり、一線を引いているところはあって、どちらかが出かける時はどこに行くのかは尋ねない、俺の了承を得ない限りは家の中のものにあまり触らない、お互いに割り当てられた部屋には勝手に入らない、などの暗黙の了解がいつの間にかお互いの間に作られていた。
 同居が始まってから二週間目の夜のことだった。少し出かけてくる、と言ってつい先ほど出て行った彼女が、五分程してから戻ってきた。忘れ物をした、青い布に包まれている小さな包みを取って来てくれないだろうか。そう彼女に頼まれ、俺の家に持って来ていた彼女の荷物から目当てのものを探しに行く。彼女の荷物は、彼女に当てた部屋の隅にぽつんと置いてあった。量自体が少ないため、すぐに包みは見つかるだろう、と思っていたが、困ったことに包みは二つ見つかった。暫し悩んだが、自分で考えていてもいつまで経っても判断がつかないと分かり切っていたため、両方彼女の元に持っていくことにして部屋を出た。
「すまない、君の言っているのがどちらか分からなかったから、二つとも持って来たよ」
「青、と言ったはずなのだけど……」
「……すまない、分からなかったんだ」
「……そうか」
 彼女は何か聞きたそうにしていたが、急ぎの用でもあるのか、すぐ戻るよ、と言い残して再び外へ出て行った。
 それから一時間が経った頃に彼女は帰って来た。やはり先程のことが気になるのか、物言いたげにしていたのを敢えて知らないふりをし、少し遅い夕御飯にしよう、と彼女を促した。
「気になるんだろう、さっきの」
食後のまどろみの時間に、向かいに座っている彼女に茶を飲みながらそう問い掛ける。彼女は両手で持っていた湯呑みを卓上に静かに置くと、俺と目を合わせながら怖ず怖ずと口を開いた。
「聞いても、良いのか」
「別にかまわないよ」
「……。じゃあ、生原くん、聞くけど、これは何色に見える?」
 自分の来ている服を指差して、彼女は言った。
「……赤」
「紺だ。……これは?」
 今度は鳩を模している箸置きの、わずかに色付いている部分を指差した。
「赤」
「……黄緑だよ。……全部、赤に見えるのか?」
「ああ」
「他の色は分からない?」
「ああ」
「……事故か何かでそうなってしまったのかい?」
「いいや、事故じゃないよ。多分、精神的なものだと思う」
「……」
 彼女は黙って先程指差した小さな鳩を見つめている。
「聞いて、くれるかい」
「……」
「僕の、話を」
 いいよ、前に私の話を聞いてくれたのだものね、という彼女の了承を得て、俺は話し始めた。
「俺は、養子として生原の家に入ったんだ。生原家はね、代々医者をやっていて、それで、俺も小さい頃からずっと医者になれと言われ続けていた」
「……養子なのか」
「そうだよ。……勿論俺も、自分は将来、医者になるものだと信じて疑わなかったし、そのために頑張ってもいた。十六まではね。……十六になった年の秋、妹が事故で亡くなったんだ」
「……」
「その時、妹は俺を庇って事故に遭った。本来なら俺が死ぬはずだったのに、優しくて大好きだった妹が俺の代わりに死んでしまった。妹のおかげで俺は大した傷は負わなかったけれど、その代わり、目の前で妹の身体が冷たくなっていく様を見ることになってしまった。……その場で出来る限りのことはやったんだ。だけど怪我があまりにも酷過ぎて、病院に着くころにはもう、妹の身体は動かなくなっていた。妹が横たわっている部屋の前の椅子に座って、ずっと自分を責めていたよ。妹が死んだのは自分のせいだ、ってね。遅れて病院に到着した家族と目を合わせるのが恐かった。それで、父と母の近くに寄らずに、廊下の隅の方で縮こまって震えていた。そうしたら、可愛がっていた娘が突然亡くなってしまって混乱していたんだろうね、父が僕に向かって、こう叫んだんだ。お前が居ながら、何故娘は死んだんだ、娘が死んだのはお前のせいだ、お前なんかいなければ良かったのに。…後で父から済まないと謝られたけれど、母から、父は、本当はあんなことは思っていないのだと否定の言葉を貰ったけれど、あの時の言葉が奥につかえて、今でも取れない。あの日、傷心したまま家に戻って、ふと気付いたら視界が赤に染まっていたよ。あれから何年も経っているのに、俺の視界はまだ、元に戻ってくれない」
 自分にとっての暗い思い出を語っていたのに、不思議と気分がすっきりしていた。机に置いてある湯呑から冷めてしまった茶を飲んで、彼女を振り返る。彼女は下を向いていて、こちらからはどんな表情をしているのか分からなかった。
「嫌な気分にして悪かったね。でも聞いてくれてありがとう。……僕はもう寝るよ。引き留めておいてなんだが、君も早く寝た方がいい」
 そう言って立ち上がると、俯いていた彼女がようやく顔を上げた。
「あと一つ、あと一つだけ聞いてもいいかい……?」
「……いいよ」
「……君がああやって戯れに尋常でない量の酒を飲むのは、何故?」
 予想外の質問をされ、言葉に詰まった。何と答えようか考え、しかし思い浮かんだどれもが間違っているような気がして、結局口を噤んだ。
「さあ、ね。分からないよ」
「……そうか。……ありがとう、もう行っていいよ。おやすみ」
「……ああ、おやすみ」
 その時の笑い損ねたかのような彼女の表情が、網膜に焼き付いてなかなか消えてくれなかった。

 私が生原京哉と暮らして、既に一カ月が経っていた。彼の家での生活は落ち着いた質素なもので、騒がしいことや他人に干渉することがあまり得意でない私にとって馴染みやすいものだった。一つ、少しだけ心配していたバーで見たあの彼の酷い酒癖は、どうしてなのか、今日まで家の中で現れることはなかった。最初こそ家では飲まない主義なのかと思っていたが、戸棚の奥に隠されるように並べられている酒の瓶を見て、私の為に遠慮してくれていたのだとはっきり理解出来たのは二週間前のことだった。
 見ていて気が付いたのだが、彼は器用なようでいて、不器用な人間だ。まず、新しい人間関係を築き上げることが下手だった。というよりそのために言葉を紡ぐことが上手でない、と言った方が正しいのか。とにかく、私も下手な部類に入ると自覚しているが、彼はそれ以上だった。当然のことながら、酒を飲むためにバーに行く時の言い訳も下手だ。一緒に生活している私を気遣ってくれているのだろうが、言葉を濁してしまうのですぐに何をしに行くのか分かって、いつも思わず苦笑いしてしまう。それに加えて、彼は家事の類が得意ではない。一人暮らしを長くしているのだから料理は出来る方なのだろう、と思っていたのに、ここに来て初日の夜に、苦笑いをしながら、君は料理出来るかい、と彼が聞いてきた時には少し驚いた。今では一日おきに私が、彼の了承を得て台所に立っているくらいだった。これではどちらが家主なのか分からない。
 だけれどいつの間にか、こんな時間も嫌いではないと思っている自分がいて、そんなことを思えるようになった事実に何より驚いた。少し前まで、何かを楽しむ、ということ自体を忘れていたのに、と。私がまた笑えるようになったのは、間違いなく彼のおかげだ。遠慮し過ぎることもない、周囲の好奇や軽蔑の目に晒されることもない環境に私を置いてくれた彼には感謝している。そうだ、私はこのどうしようもなく心地よい、この、彼との生活が、好きだ。
 彼と同居して一カ月と一週間が過ぎた。その日、私は出先で私との心中騒動のことを悪く言われ、気分が沈んだまま彼の家に帰った。丁度帰宅した時刻が被ったようで、彼は玄関の近くにいた。こちらを振り返って私を認めた彼は、眉をひそめて私に声をかけた。
「どうしたんだ、酷い顔だ」
「……そうかな、普通にしていたはずなのだけど」
「……何かあったのかい?」
「いや……出先で、ちょっと、ね」
 私がこの話題を曖昧にして終わらせようとしているのを悟ったのか、彼は眉間に寄ったしわをそのままに、困ったように笑った。そうして、あろうことか、私の頭に手をやったのだ。幼い子供にするように私の頭を撫でる彼は、それを無意識にやっているようだった。おそらく、この前彼の思い出を話してくれた時に出てきた妹にもそうやっていたのだろう、そういったことに慣れているようだった。だが、如何せん、私は小さい時から人に頭を撫でてもらうということをして貰わなかったが故に全く慣れておらず、ただ彼の行動を呆けたまま眺めていた。
「分かった、もう聞かないよ。……何はともあれ、おかえり」
 頭に乗せられた彼の大きな掌と、彼の、おかえり、という言葉が心に浸み込んできて、不意に涙腺が緩みそうになった。だって、本当に、こんなことは初めてだったのだ――。
 その日、私は二つのことを理解した。一つは、私の居場所はこの彼のいる家にあるのだということ。もう一つは、どうやら私は、彼に惹かれてしまったらしいということだった。

 彼女と同居するようになってから二カ月が経った。彼女は同居し始めた頃に比べると、ずいぶん表情や感情が戻って来ているようで、俺はそのことに安心していた。しかし、その安心が仇となったのだろうか、ついに俺の酒に対する我慢が利かなくなってしまったのだった。
 俺は今まで、家の中でアルコールを取ることは控えていた。何か間違いがあってはいけないから、それも理由の一つではあったが、一番は、自分の悪い酒癖のせいで彼女に迷惑をかけないようにするためであった。
 しかしこの日は、彼女の帰りが遅くなるということで、すっかり油断してしまっていた。行きつけのバーにもここ数日寄っていなかったのがよくなかったのかもしれない。とにかく、魔が差してしまったのだとでも言おうか。彼女が返ってくるまでにはまだ時間があるからと、戸棚の一番上に置いてある酒の瓶のうちの一本をつい取り出してしまった。
 ふと気づいた時には、自分の周りに空の瓶が二、三本転がっていた。嗚呼、久しぶりなのにこんなに飲んでしまった、もう止めなければ。そう思い、床と机の上を片付けてしまおうと瓶を拾い集めて立ち上がろうとした、その時だった。玄関の方からガチャリという音がした。彼女が出先で用事を済ませ、予定よりも早く帰宅してきた音であった。
 靄がかかったような頭の隅でただ、しまった、と思う。血の気は引いているのに、頭はなかなか上手く回ってくれない。少しだけなら、と思って飲んでいたはずなのに、いつの間にか自分の方が酒に飲まれてしまっている。いや、そんなことは問題なのではない。いつ入ってきたのか、いつからそこに居たのか、不思議そうな面持ちで彼女が一人静かに立っていた。
「――……悠」
「……どうしたんだい」
「――。――――」
自分の口が勝手に酷い暴言を吐き出すのを、自分の中に残ったどこか冷静な部分で聞いていた。
「――――!」
 駄目だと、頭では既にそう判断を下しているはずなのに、どうしても口は止まってくれない。彼女は先程の表情を変えないまま、俺の言うことを聞いているのか分からない位の長い時間、ずっとこちらを見ていた。
 ――止まれ、止まってくれ。自分の言いたいことはこんなことではないのだ。俺がどんなにこの心の中の燻りと闘おうとも、酔いは一向に醒める気配を見せることはなかった。酒なんか飲まなければよかった、嗚呼、俺はこうしていつも後悔するのだ、そして後悔という文字が表している通り、後に悔いて、それがどんな事象であろうとも、決して先に生かされることはない。嗚呼、悠、すまない――……。
「どうしたんだい」
 彼女は先程言ったと思われる台詞を、もう一度口に出した。目は相も変わらずぼんやりとしていたが、彼女のその落ち着いた口調が今のこの場の空気にあまりに似つかわしくなくて、逆にそれが自分の中の不安を煽った。
 またやってしまった。今ので確実に自分は嫌われたであろう。他でもない、自分とどこか同じ雰囲気を持ち合わせている彼女に。理解した途端、今度ははっきりと自分の中に何か冷たいものが流れるのを感じた。まるで煮え立つ湯の中に、氷を投入したかのような、それを。
 滑稽だ。冷静な部分の自分がそう嗤う。どうにもならないのだ、もう。諦めてしまえという悪魔の囁きが大きくなった気がした。
「君は、怒っているはずなのに、悲しい瞳をしている」
 沈黙を破って聞こえてきたその言葉は、静かな部屋に良く響いた。
「君は知らないかもしれないけれど、君のそれは怒りというより、虚しさだよ。いや、寂しさ、何かを強く求める心とでもいうべきかな」
彼女は俺に向かってとつとつと語りかける。
「あのバーで見たとき分かったよ。私と同じような瞳をしている、って。この人は、私と同じように何かを探しているんだ、って。そう、実を言うとね、私も最近までずっと探していたものがあったんだ。最初は自分でも何を探しているのか全く分からなかった。だから、心の中で欲しい欲しいと叫ぶばかりで、だけど肝心のそれが何なのか分からなくて、ただ渇いていくばかりだったんだ。でもこの前やっと見つけた。見つけたそれが、自分のぽっかり空いている部分に、いや、干からび過ぎていて死にそうだった渇ききった部分に、それこそ水を吸って潤ったみたいに浸み込んできた」
 理性が軽く飛んだ頭に、悠の静かな声は抵抗なく、すとん、と落ちてきた。
「私が探していたものが何なのか気付かせてくれたのも、私を私に戻してくれたのも、君なんだ、生原くん。きっと君は気付いていないんだろうけど、それでも私は救われたんだ。他でもない、君に。――だから今度は私の番だ。私が君を救う、いや、あまりおこがましいことは言えないな……そう、受け止める番だ」
 そう言い切った悠の姿は、窓から入ってきた月明かりに照らされて、俺の赤に染まった視界の中でも酷く美しく見えた。俺は何かを言おうとしたのかもしれなかった、だが中途半端に開いた唇からは、ついぞそれが音になって出てくることはなく、そのまま口を閉じる。体が悠に引き付けられるように動いた。ぼすり、と悠の肩口に頭が埋まる。そのままゆっくり力を抜くと、悠の細い腕が自分の背中に回るのが分かった。失われていた冷静さや判断力、理性と呼ばれるものが次第に自分の中に戻ってくる。幼い子供をあやすように規則正しい律動が、悠の手によって送られてきて、自分の中のどこか脆い部分にじんわりと浸み込んでくるようだった。
「――……大丈夫だよ」
 自分のまなじりから、何故だか温かいものが伝っている気がした。
「大丈夫、大丈夫。もう、大丈夫だから」
 急激に訪れた安心感と、酔いから適度に醒めた心地よい状態が相まって、俺を深い眠りに引きずり込んでいく。意識を失う直前、一瞬だけ視界に移した悠の長い髪が、何故だか艶やかな黒だと分かった。久しぶりにいい夢が見られそうだ、という確信が心の中で渦巻いていた。
 ――ようやく、気が付いた。
「京哉くん、――」
 嗚呼、俺は、この人が、好きなのだ――。
 その日から、俺のあの悪い酒癖が顔を出すことは、二度となかった。

「悠、君が好きだ。俺と付き合ってくれないか」
 俺がそう悠に告げたのは、彼女と共に暮らすようになって三カ月が過ぎた頃だった。彼女と彼女の付き合っていた相手が起こした心中未遂が世間で騒がれなくなってずいぶん経ったが、未だに悠は俺の家から出て行こうとはしない。悠はどうやら俺との生活を楽しんでいるようだった。その事実に淡い期待を抱き、俺は緊張で煩く鳴っている心臓の鼓動を無視して、彼女に思いを告げてみたのだった。
 俺の言葉を聞いて動きを止めた悠は驚いたようにこちらを振り返った。
「今、なんて」
「君のことが好きだ、って言ったんだよ。君が彼のことを忘れられないのは分かる、それに付け込んでいるって思われるのも承知の上だ。だけど、君のことを想う気持ちが抑えられないくらい、好きなんだ」
「……嘘、だろう」
「嘘じゃない。好きだ。……付き合って、くれないか」
 長い沈黙の後、悠はこちらを向かないまま、震える声でようやく言葉を返した。
「……すまないが、君の気持に堪えることは出来ない」
「悠……?」
「多分、これからも君の気持に堪えることは出来ないと思う。どうか、諦めてくれないか」
 悠は、最後の方は消えそうなくらいの小さな声でそう告げてきた。何故だか俺には、彼女が無理をしてその言葉を紡ぎだしているように見えた。
「……すまない」
「悠!」
 この空間にいることに耐え切れなくなったのか、悠が部屋から出て行こうとした。止めようと手を伸ばすも、髪の間から見えた彼女の顔はどこか泣きそうに歪められていて、思わず彼女を追う足を止めてしまった。彼女は俺の手をすり抜けて行ってしまった。
 はっとして、慌てて外に出て彼女を追いかける。広い通りに出て辺りを見回すと、彼女の後ろ姿が見えて安堵した。と同時に、何故さっきまで走っていたのに、今彼女は立ち止まっているのだろうか、と不審を抱いて、急いで彼女の元に行く。
 彼女の傍に辿り着く、と、彼女の視線の先には一人の男が佇んでいた。
「悠……?どうしたんだ?……この人は……?」
 声をかけても、どうしてだか呆然としている彼女はぴくりともそれに反応することはなかった。男も何も言わない。いや、彼は最初から俺の言葉など聞いていないようだった。男がおもむろに口を開く。
「探していたんだよ、悠。こんなところにいるとは思わなかった。さあ、帰ろう」
 その言葉は聞こえているはずなのに、それでも悠は何も言わない。それどころか彼女は、男に怯えるかのように一歩下がって、自らの手を、まるで他に頼るものがないとでも言うように、血の気を失って白くなるほど強い力でぎゅっと握りしめた。
 男は暫く彼女のその反応を、面白い物でも見ているかのような目で見続けていたが、唐突に俺の方を向いて嫌な感じのする笑みを晒した。
「嗚呼、もう保科君ではないんだね」
 悠の肩が少し跳ねた。
「捨てたのかい、捨てられたのかい、それとも自然消滅?まあ、どれでもいいけれど。ね、悠、これで分かったろう、男なんてこんなものさ」
 値踏みするような目で遠慮なくこちらを眺め回していたその男は、そう言った後、もう興味がないとでもいうようにあっさりと視線を外し、悠の方に向き直った。相も変わらず彼女は言葉を一つも発しない。どころか、男と目線を合わせようともしない。彼女とか長くはないが、短いとも言えない時間を共に過ごしてきたが、こんな反応をしたはこれが初めてだったように思う。
「今はその男と暮らしているのかい。まさかそのままその状態を続けていきたいなどと考えているんじゃないだろうね。僕たちの家は、そんな見ず知らずの男と釣り合うような低俗なものではないだろう。……悠、戻ってくるんだ。今なら勝手に家を飛び出した罰を軽くしてあげよう。――さあ、悠、おいで」
「……だ……」
「悠」
「…だ。嫌だ…嫌だ。嫌だよ、――」
 悠の口が空気を食むように動く。
「――にい、さま、――」
 悠の淀んだその瞳に諦念に似た感情が浮かんでいるのが見て取れた。弾かれたように悠がまた走り出す。入り込んではいけないような空気を感じ取って沈黙を保っていた俺は、彼女のその突然の行動に驚いて、動き出すのが一拍遅れた。また俺は、彼女の手を掴むことが出来なかった。
「聞き分けの悪い子だ……絶対に連れ戻してあげるからね」
 どうやら悠の兄らしい男の呪詛のようなその言葉が、いつまでも耳にこびりついていた。
 俺はここに来て、どうすればいいのか分からなくなってしまった。

 あれからしばらく、俺は近くにある公園の長椅子に放心したまま座っていた。まず悠の元に行かなければいけないはずなのに、どうしても足は動いてくれない。すると、どうすればいいのかとまだ混乱し続けている頭で考えていた俺の元に、呆れたような声が届いた。
「何やってんだ、お前。こんなところで」
 顔を上げると、以前酔った俺を俺の自宅まで送り届けてくれた、あの男がそこにいた。
「……本当、何をやっているんだろうね。分からないよ、自分でも」
「……あの御嬢さん絡みだろう、どうせ」
「……どうして分かる?」
「店ではこの話題で持ち切りだったんだぜ。お前が酒を控えてまで親身になって面倒を見ている女がいるってな。それも確か、あの心中騒動を起こした二人組の、女の方と」
「まだ収まっていなかったのか……」
「安心しろ、持ち切りなのは騒動の方じゃなくてお前が女と暮らし始めたって方だ」
「……それはそれで複雑な気分だよ」
 疲れて一つ溜め息を吐くと、彼は急に表情を切り替えて俺と目を合わせるようにして話し始めた。
「何があったのかは知らないし、聞かないけどよ、お前、こんなところにいちゃいけないんじゃないのか」
「……それこそ、なんで分かるんだい?」
「なんとなく、勘だ、勘。お前がそんな顔をしている時は、大体迷っている時だからな」
 彼がにやりと笑って言った。普段悪人面にしか見えないその笑みが、何故だか今だけ頼もしく見えた。
「……それは気付かなかったよ」
「当たり前だ。お前とどのくらい一緒に飲んでると思ってやがる」
「さてね」
「彼女が逃げ出すようなことでもやらかしたのか? とにかく、今すぐ追っかけて話し合ってこい。それに彼女も待っているかもしれないし、な」
「……駄目かもしれない」
「はあ?」
「会っても、もう話も聞いてくれないかもしれないよ」
「……」
「それに……彼女、今は俺と話せるような状態じゃないかもしれないんだ、だから……」
「尚更だ」
「……?」
 彼が強く言い切った。
「それなら尚更お前は行くべきだ。気にかけている相手が辛い時に傍にいてやらなくてどうする」
「けど、俺にはそんな資格は……」
「そんなこと考えてどうするんだ。とにかく行け、それからのことは行ってから考えろ。気弱になるんじゃねえよ。お前、いつも後一歩のところで迷って結局踏み出さないから駄目になるんだ。お前自身に踏み出すための力はあるのに、お前はそれを使おうとしない。そんなの勿体ないじゃねえか、存分に使ってこい。全力でやりゃあ、結果が良くないものでも受け止められるだろ」
「……」
「だから、ほら、行って来い」
「………いつもながらに五月蠅いな、お前」
「何とでも言え」
「……だけど、まあ、今回は感謝してやるよ。……ありがとう」
「おうよ。……次会った時、俺に奢るか奢られるかしろよ。それでチャラにしてやる」
「分かったよ。……じゃあ、また」
 俺がそう言うと、彼は後ろ向きのままひらひらと手を振りながら去って行った。それを見ながら、思う。話し合う、というのは得意ではないけれど、今度こそ勇気を出してみようか。背中を押された今の俺なら、頑張れるような気がしていた。大きく息を吸って、悠を探すために俺はようやく一歩踏み出した。

 私は和宮の家に四女として生まれた。一般の家庭より裕福な生活を送れる地位にあった私の家では、家を継ぐことの出来る長男と、その次に生まれた次男以外、ほとんど大切にされていなかった。私たち兄弟は皆その扱いを理解していたために、わざわざ不満を言うことはなかった。言っても無駄だと悟っていたからだった。長男、次男以外には親も他の兄弟も深く干渉することはない。そんな訳の分からない秩序のようなものが、家の中では、私が十四になるまで平気で通っていた。
 それが見えないところで崩れてきたのは、私が十四になって、容姿が可愛いと言えるものから綺麗と言えるものに変わってきた、丁度その時期だった。一部の人間以外とあまり関係を持つことがない閉鎖的な空間で育ってきた私たちは、思春期特有の感情等を持て余していた。それだけが原因だったのだとは思わないが、その頃から長兄の私を見る目が、ただの妹のうちの一人を見るそれから、一人の女を見るそれに変わっていた。私はそれに恐怖した。今まで何度か他人からそのような感情を抱かれることはあったが、家族から、それも、家の中では親の次に絶対の秩序とされている長兄からそんな風に見られていることがとてつもなく怖かった。それでも行く当てがないために、数年は兄の視線に耐え続けた。
 けれども十八になったある日、兄から呼び出され訪れた部屋の中で、私の肩をしっかりと掴んで、お前はこの家に一生居続けるんだ、出て行くことは決して許さないと、そう言い切った兄の狂気を内包している目を直視したことで、私の中の何かが爆発した。気付いた時には自分の少ない荷物をまとめて家を飛び出していた。兄が追ってくるかもしれないという恐怖に怯えながら、家からに離れた場所に行こうと、ただそのことだけに必死になった。
 そんな生活長く続けて、心身ともに疲れ果てていた時だった。彼に、保科雅に出会ったのは。彼は私に対して兄と同じような感情を抱き、兄と同じような目をしていた。心の傷が深かったその時の私は理由を言わずにその気持ちには応えられないと断った。だが、彼はそれでもいいと言った、言ってくれたのだ。そしてそのことが私の心に甘えを生む原因となってしまった。彼を頼ってしまった。彼に少しでも依存してしまった。何も、言わないまま。
 彼と暮らして暫く経って、心の整理がようやくつきそうになっていた私は、彼に今まであったことを全て話した、いや、話そうとした。結果、私の出自と家を飛び出してきた理由を知るところとなった彼は、狂ったように泣きながら私の首を絞めてきた。
 その行為は未遂になって終わった、が、私が運び込まれた病院で、今度はバーで何度か見かけていたあの男に会った。そして成り行きで同居することになり、今、彼は私に対して、兄や保科雅と同じような感情を持っていると言う――。

 悠を見つけた時には辺りはもうすっかり暗くなっていた。あの日俺と出会った病院の前に、彼女はいた。反射的に逃げ出そうとする悠の手を取って、一度だけ、一度だけでいいから話し合おう、と俺が言うと、やっと彼女は逃げ出そうとすることを止めた。止めて、そして話してくれた。彼女自身のことを、全て。
 話し終わった彼女は、仕様がないことなんだよ、とまるで諭すように、話を聞いて顔をしかめていた俺に向かって言った。
「だけど、これで分かっただろう、私は、自分を好いてくれた人から逃げようとばかりする、最低な女なんだよ」
 俯き、自らの長い髪を片手で弄びながら、悠はどこか自嘲気味にそう言った。顔の大半が隠れているため表情はよく分からない。
「最低なんかじゃないだろう、君は相手を受け入れようと頑張ってきたじゃないか」
「だけど結局逃げてしまった。変わらないよ、何も」
「いいや、君はやれるだけのことはやったと思うよ。何もやらないのと比べたら、その差は大きい」
「……そうだとしても、今まで一回もいい結果にはならなかった」
「……」
「だから――」
「じゃあ、今度こそいい結果を出せばいい」
 彼女の言葉を遮って言う。
「今度こそ、違う結果を出そう。――俺と、一緒に」
 彼女は大きく目を見開いた。
「今の話を、聞いていただろう……!?」
「ああ」
「なら、どうしてそんなことを言うんだ」
「今の話を聞いても、それでもいいと俺が思ったからだよ。……どうやら俺は、自分で思っている以上に君のことが好きみたいなんだ」
「――! ……また、依存して、傷付けてしまうかもしれない。今度は、君を」
「それでもいい」
「……駄目だ」
「駄目じゃない。君がすぐに倒れてしまうというのなら、俺は君を支えたい。それでいいじゃないか。俺は、そのままの君を好きになったんだから」
 ヒュッ、と悠が息を呑む音が聞こえた。
「……悠、僕は、他の誰でもない君を、君のことを、大事にしたいんだ。不安なら、一緒に歩いて行けばいい。大丈夫、怖くない」
「……のか」
 聞こえるか聞こえないか微妙な音量で悠が呟く。
「こんな私でも、いいのか」
 よく見ると、既に彼女の目にはうっすらと透明な膜が張られていた。
「そんな君だからいいんだ。……悠、愛してる」
 悠のまなじりから一筋、涙が零れ落ちる。
「私も……私も、好きだ。京哉くん、愛している、よ……」
 悠の声が鼓膜に届いた。瞬間、世界が広がった気がした。いや、気のせいではない。彼女を中心にして視界が色付いた。
 今までの赤のみで構成されていた自分の視界が、それぞれが持つ本来の色に変化していった。
 数年を隔てて、視界が今、元に戻った。
「――……悠」
「どうしたんだい」
「視界が、戻った」
「戻った……?」
「元に、戻ったんだ。赤じゃなくなったんだ。……空も、地面も、君の髪も……全部、色付いて見える」
「――!」
「――……嗚呼、こんなに綺麗だったんだね」
 今度は、自分の目から流れ落ちる透明な雫の熱をはっきり感じた。
「ね、悠。なんだか上手くいきそうな予感がしないかい?」
 悠が綺麗に笑った。
 月の柔らかい光が彼女の髪を静かに照らしていた。

 (これが、俺と君の、カタチ)



目標枚数内に収めようと削りに削った結果、変に疾走感あふれる作品に仕上がりました。これもまたいい思い出……なのか?(部誌より再録)
120415



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